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産油国の石油戦略中東戦争

『中東とアフリカを結ぶスエズ運河を所有するのは、エジプトである』。
この運河は紅海から地中海まで、砂漠の中に掘られた100マイルの狭い水路です。この運河は19世紀最大の事業であるといわれています。
1859年に着工し1869年に完成しました。イギリスはその運河の価値に着目しました。
その時、イギリスハは運河の権利を所有していませんでした。1875年エジブトの支配者が破産しました。イギリスは、ロスチャイルド家の融資により、運河の株を買い取りました。こうしてスエズ運河会社はイギリスとフランスの共有となった経緯があります。
当初、運河はスエズ運河は、インドへの所有時間を短縮し、旅行者、ビジネスマンにとって交通手段の改革でした。
インドとの関係を密にする大動脈でした。1949年インドの独立と大英帝国の解体により、運河の意義は、
ヨーロッパへの石油ロードとしての役割りを持つことになるのです。
冒頭の言葉はナセル大統領が常々抱いていた心情です。エジプトはナイル文化を生み出したという誇りがあります。
このスエズに第2次大戦後、大国が国際石油産業の血管の役目として眼をつけたのでした。
ナセル大統領の反発心は芽ばえていきました。
エジプト、イギリスのスエズ運河を巡る確執とは別に、現在の中東紛争の火種の根底について見てみましょう。この深層を知らずして、オイルショックをも招いた数々の中東紛争を理解することは出来ません。、 エジブト軍ガザ侵攻

,1948年5月14日
1万のエジプト軍隊はガザに侵攻した。

中東紛争・それは、イスラエルの独立宣言に始まった
そもそも、現在の中東紛争の火種は約55年程遡る1948年にイギリスの信託統治領だったパレスチナ地方に入植していたユダヤ人たちがイスラエルの建国を宣言したことに端を発します。
これに対して、アメリカ、ソ連及び衛生諸国が承認しました。しかし、ユダヤ人国家の建国を認めない周辺アラブ諸国、エジプト、シリア、レバノン、ヨルダンのアラブ連合軍はパレスチナに侵攻しました。
これが第一次中東戦争です。この戦争でエジプトはガザ地区を手に入れ、ガザと他のパレスチナ地区との間に国境が引かれることになりました。
結果、ヨルダンは西岸地区を手に入れ併合し、エジプト、シリア、レバノン、ヨルダンがパレスチナ地方を分割する分捕りすることとなりました。
当初、イギリス、国連はパレスチナをユダヤ人国家とパレスチナ人(アラブ人)国家の建国を考えていました。
この戦争はパレスチナ人国家の成立を不可能にしたのです。

このパレスチナ、イスラエルの確執とイスラエルを支援する諸国とパレスチナを支援するアラブ諸国の対立の構図が
半世紀を経た今日あらゆる問題の根底にある訳けです。
 → ロードマップ


スエズ戦争・第2次中東戦争は何故勃発したのか

1952年7月23日エジプトでは、若手将校グループが軍事クーデターを起こしました。
国王を追放し王政を廃止しました。
1955年当時スエズ運河を通過する約70%がペルシャ湾岸石油でのヨーロッパへの動脈でした。
 1955年にエジブトのナセル大統領は、バダート条約機構への加盟を拒否し、対米関係が急速に悪化しました。
翌年の56年にはアイゼンハウハー大統領は、アスワン・ハイダム建設の融資を撤回しました。
これに激怒したナセル大統領は、1956年7月26日に少年の頃初めて反英闘争に
参加した広場アレクサンドリアで演説しました。
この時の演説の言葉の中に「KEY WORD」が隠されており演説の終了を待たずして、陸軍がスエズ運河を接収しました。
ダム建設資金調達の為にスエズ運河の国有化を宣言し、イスラエルだけにスエズ運河の通行を認めたのです。
ナセルはスエズ運河閉鎖をもって対抗しました。アメリカは自国のスエズ運河通行の保証を条件にスエズ運河の国有化を承認したのに対して、イギリス、フランスはシナイ半島においてエジプト軍とイスラエル軍の引き離しを通告しました。
しかし、ナセル大統領は拒否ししました。
そこで1956年10月24日イギリス、フランス、イスラエルの3ケ国は国有化とエジプト革命の阻止から
攻撃が10月に開始されました。
、エジブトは劣勢でしたが、英仏の植民地主義に反対するアメリカがイギリス、フランスの武力制裁を非難し
世界の世論はエジブト側についた結果、3ケ国は撤退しました。
この戦争の終結と共に東アラブ地域のイギリスの主導権は完全に消滅しました。
この時、アイゼンハワー大統領は『自前の石油でやっていけ!』と3ケ国首脳を恫喝したと言われています。

いわゆる『スエズ戦争』第2次中東戦争の勃発です。

これらのスエズ運河国有化、フランス、イギリス、イスラエルの侵攻、そして撤退、スエズ運河再開から
再開5周年と一連の流れを切手で紹介します。

スエズ閉鎖
国有化
1956年7月
シナイ半島侵攻
1956年10月イギリス、フランス、
イスラエルはシナイ半島に侵攻する
ナセル大統領
ラブは石油を武器にすべきだ。ヒットラーを彷彿させた
シナイ半島撤退
956年12月アメリカと国際世論の圧力に屈して撤退する。
アイゼンハワー
自前の石油でやっていけ」とイギリス、フランス首脳を恫喝した。
イギリス、フランスのスエズ支配の目論見は僅か半年で崩れ去り、ナセル大統領は「敗者の勝利」を得た。他のアラブ諸国におけるナセル
の人望を高めた。
スエズ再開1年
スエズ運河再開1周年記念して発行された記念の初日カバー
スエズ再開5年
スエズ運河再開5周年記念

エジプト・シリア合邦の意義

958年、シリアがナセルに対して国家の合併を持ちかけましたるシリアとエジプトは合体してアラブ連合共和国となりました。
何故か、シリア政府や軍部に共産主義者が増え、アメリカから支援されている右派と対立し不安な状態になっていた。そのためにナセルの傘下に入り選択肢が選ばれたのでした。
しかし、西側諸国に脅威を与えたのは『石油』を武器にするナセル大統領の存在ででした。
スエズ運河を所有するエジプトと石油積出港『タータス』を所有するシリア、この両国が合邦することは、
中東の石油を支配することになります。
これは、単に合併を周知さす切手でなくだけでなく、石油支配の宣言でもあります。
エジプトシリア合併 シリアエジプト合併 石油積出港タータス
シリアの石油積出港タータス
エジプト発行 シリア発行
このことは、全アラブ統一への第一歩と鳴るはずであった。しかし、根底に両国は社会的基盤がことなっていました。
エジブトは、農村風土、シリアは商業都市を抱えた商人風土です。ナセルは両国の地域格差を考慮しませんでした。
シリア側はエジプトの支配下におかれることのへの反発が強まり、1961年シリアでクーデターが起こり
シリアがアラブ連合から離脱しました。

非産油国レバノンに石油会議での発言権は何故あるのか

メージャーが産油国との協議も無く、石油価額を強引に引き下げました。
主要産油国のアラブ連合、クウェート、非アラブのイラン、ベネズエラがエジプトのカイロに集結して
「アラブ石油会議」が開催されました。やがて産油国の価格カルテ組織と色彩を強めた
OPEC結成へと:へと発展していきます。
アラブ石油会議には、非産油国のレバノンが会議のメンバーとなっています。
何故でしょうか。レバノンは石油のメッカ中東に位置しながら非産油国です。
自国は地下資源が無く、農業が国家経済の基盤です。
レバノンは岐阜県と同じくらいの面積で、中東のスイスと呼ばれる風光明媚な海岸は保養観光地です。
なぜレバノンがアラブ石油会議のメンバーなのでしょうか。
1960年には会議の開催国にもなっています。これは、レバノンの『サイタ』と『トリポリ』に地中海への
石油積出港があるのです。
サウジアラビアの「ターラン」、イラクの「キルクーク」からシリアを通過してトリポリ港までパイプラインが敷設されています。
イラクはペルシャ湾に面した海岸線は40kmしかありません。
サウジアラビアにしろ地中海へのタッブラインはレバノンの積出港が必要です。
このように、オイルロードは産油国にとって死活問題です。このアラブ石油会議のエンブレムの加刷された切手を発行することにより自国の「石油」への関与を強調しているのです。
このように切手発行の深層に迫るのがテーマチィックコレクションとして面白いところです。
アラブ石油会議59カイロ アラブ石油会議バクダット
イラク
アラブ石油会議65年
アラブ連合国として発行された初日カバー






アラブ石油会議ベイルート
レバノンはアラブ石油会議のエンブレムを加刷している。
 石油輸出国機構(OPEC) 産油国カルテ                                                                              
OPECは、アラブ石油輸出機構が中心となり1959年に設立されました。設立当初は参加5ケ国でしたが、
順次参加国が増え13ケ国になりました。
産油国の価格カルテル色が強く石油価額が暴騰し石油パニックを招きました。
産油国側がメジャーに対抗の姿勢から結束を目論見たのですが、産油制限にしろ価格協定にしろ、内情はけして
一枚岩でありませんでした。それには、複雑な要因が絡んでいます。OPECグループにおいてもイラン・イラク戦争もあり、アラブ派とインド圏、ハト派とタカ派、王政派と反王政派、そして経済情勢の格差等です。1993年にエクワドルが1997年にはガボンの非アラブ圏の産油国が脱退しています。1980年のOPEC結成20周年記念には加盟13ケ国の国旗をデザインした切手を産油国の結束を誇示するかのように13ケ国から29種類発行されています。
皮肉なことに、OPECの結束が一因となって招いた石油危機が結果的にnon-OPEC諸国の油田開発へと駆り立てる結果となり、OPEC諸国への依存度が薄れてくるのです。しかし、日本は、中東依存度が80%でありエネルギーは中東に頼らざるを得ません。
このあたりがオイルロードに睨みを利かす米国の軍事力と日本の中東外交において
アメリカとの関係が微妙になる所以です。
OPEC総会記念切手発行国
1970 1980 1985 1990
Algeria 2 1 1
Ecuador 2 2
Cabon 2 1 1
Indonesia 1 1 1
Iran 2 2
Iraq 2 2
Kuwait 2 2 3
Libya 2 1 2
Nigeria 2 2 4
Qatar 2 2 2
S-Arabia 1 2 2 2
UAE 4 3
Venezuela 2 1 5
Totals 5 29 14 26
OPEC加盟年
1960年 ベネズエラ、イラク、イラン、
クウェート、サウジアラビア
1961年 カタール
1962年 エクアドル、リビア、
1967年 アラブ首長国連邦
1969年 アルジェリア
1971年 ナイジェリア
1973年 ガボン、インドネシア
脱退
1993年 エクアドル
1997年 カボン
opecカタール opecベネズエラ
OPEC:結成30周年記念
13ケ国の国旗
中東地域
イラク・カタール・イラン
クウェート・・サウジアラビア・アラブ首長国連邦
南アメリカ地域
ベネズエラ・エクアドル
1993年エクアドル脱退
opecナイジェリア opecガボン
アフリカ地域
アルジェリア・リビア
ナイジェリア・ガボン
1997年ガボン脱退
アジア地域
インドネシア
エンブレムはOPECをデザイン化したものです。
結成30周年に発行された切手は13ケ国の国旗を意匠としているが
代表としてベネズエラの切手を使用しました。
967年パレスチナ解放機構(PLO)が結成され、PLOのゲリラ攻撃に対するイスラエルの報復が発展したものが第三次中東戦争といわれている。これによりパレスチナの難民がイスラエルの占領地から流出した。このような状況下で1973年10月に武力衝突が起こり第四次中東戦争が勃発した。
第四次中東戦争は、石油危機のページをご覧下さい。

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